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2010年12月28日(火)に阪大生協書籍部豊中店で10%オフにて購入し、30日に読み始め、31日に読み終える。
第5章までは入門書としてそこそこ面白く読めたけど、第6章以降の『現代思想』的な文章は正直お腹一杯でいらない。
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2010年12月28日(火)に阪大生協書籍部豊中店で10%オフにて購入し、30日に読み始め、31日に読み終える。
第5章までは入門書としてそこそこ面白く読めたけど、第6章以降の『現代思想』的な文章は正直お腹一杯でいらない。
大晦日なので今年を振り返っておこう。
今年一年で観た映画は32本(複数回観たものもあるため重複あり)、通読した本は26冊であった。恥ずかしいけど隠しても仕方がないので自戒の意味も込めて一覧表にしておく。
郵便年賀.jpで「今年の一文字」を改めてやってみた。結果は次の通り。1位「大」(296回)、2位「学」(285回)、3位「飲」(250回)、4位「行」(228回)、5位「時」(222回)、6位「本」(220回)、7位「阪」(202回)、8位「会」(200回)、9位「間」(199回)、10位「帰」(199回)。
以下、今年の日記から一年を振り返ってみる。
元旦の日記には「今年は語学をしっかりやろう。特に英会話は実用的なレベルまで伸ばしたい」と抱負らしきものを書いてある。ある程度語学には力を入れてきたけど、英会話が(わたしの想定する)実用的なレベルに達したかというと、まだまだまったく使い物にならないレベルにとどまっている。
日記を読む限り今年は年初からけっこう活発に活動していたようだ。あわただしくしているあいだに誕生日が過ぎ去ってしまったと記してあるのも、たしかにそうだったと思いだされる。それから1月の後半にはストレスがだいぶたまっていたなあ。このストレスが年初のあわただしさからくるものだとすれば、来年度以降はそのことを意識してストレスコントロールできるよう努めたい。
2月に入るとシラバスの執筆についての記述が見られる。2月4日の記述にあるとおり「前期と後期で各2コマずつ計60回分の講義内容を考えるというのは思った以上に大変」だった。じっさいどこまでシラバスどおりに講義ができたのかという問題もあり、シラバスと講義の両面から反省して来年度以降に活かしたい。
2月の後半からツイートの割合が増えていったようだ。2月末には奨学金の返還免除申請書を準備している。こちらは5月末に半額免除の通知をいただいた。多謝。2月末のもうひとつの大きな出来事は新しい部屋を探していること。
あっという間に3月になり、引越でばたばたしている。3月にはほとんどの記録がツイートによるものになっている。月始めにはWorld Wide Views in Japanの結果報告シンポジウムで東京に出かけている。このころは研究室の謝恩会の幹事を引き受けて走り回っていたようだ。幹事力というのも世知辛い世の中で生き残っていくために必要な能力の一つなのかもしれないけど、できればなくて済ませたいところ。
3月末には熊本で開かれていた第6回九州山口地区臨床倫理集中講座に参加している。これに感銘を受けてのちに9月にも鹿児島で開かれた第7回九州山口地区臨床倫理集中講座に参加している。
4月から大学は新年度を迎え、学振の特別研究員と某大学の非常勤講師として「気持ちを引き締めて」いこうとしている。実際にはどうだろう。それほど気が引き締まっていた自信はない、残念ながら。
4月3日に弟の結婚式に出席するため帰省している。このときもそうだったけど、今年は飛行機に何度も乗り損ねそうになっている。来年はそうならないように気をつけよう。
4月4日のツイートには「親の子に対する愛と子の親に対する愛は同等かといったようなテーマで一度哲学カフェをやってみたい」と書いてある。どうしてこんなことを思ったのかいまとなっては思い出せないけど、少なくともこれを書いたときにはそう思っていたんだろう。これに続けて「哲学カフェが臨床哲学のいう現場かどうかはともかくとして、仮に現場だとしてもその現場に臨場するのは必ずしも進行役だけではないはずなんだよなあ。どうも周りを見ていると進行役をやってこそ臨床哲学を実践しているかのような風潮があるけど、そうした考え方こそ啓蒙主義的であり自己矛盾的だよなあ」とも書いてある。まあ、あれこれ臨床哲学のことについて考えていたのだろう。
4月中旬に某中東系テレビ局から日本の捕鯨について番組を制作するのでインタビューに協力してほしいというメイルを受け取っている。しばらく経ってから返信をしたのでわたしの返信に気づかなかったという理由で(少なくとも向こうはそう言っていた)インタビューには来なかったけど、のちに番組ができたということでYouTubeのアドレスを送ってきてくれた。
4月下旬には北大で開かれていた応用哲学会第2回年次研究大会でポスター発表している。ポスターが出来上がらないまま北海道へ行く日を迎えてばたばたしていたんだよなあ。ポスター発表というのも初めてだったので、いい経験になった。
マンションでボヤがあったのは4月末だったか。堺シティマラソン(10km)に参加したのも4月末だったか。結局、それっきりまったく走っていない。
5月初旬には風邪を引いている。中旬に大分大学で開かれていた日本哲学会の年次大会に参加。下旬にはメディカル・カフェ「痛みの表現と伝え方」 の進行役をしている。
6月初旬に博士予備論文を提出。あまり思い出したくない。
博士後期課程で借りていた日本学生支援機構の第一種奨学金の返済が半額免除されるという通知を6月下旬に受けている。改めて多謝。
6月は映画をたくさん観て本もたくさん読んだようである。
バイオEXPOに参加するため7月上旬に東京出張。初めて東京ビッグサイトに行った。7月3日には話題になった映画”The Cove”を第七藝術劇場で観いている。来年の2月にDVDが出るようだ。
Dropboxを使い始めたり、b-mobile WiFiルーターを買ってb-mobile SIM U300を使い始めたり。
7月13日の記述に「自伝的文章を公表するのは、哲学(研究)者であれば引退して引退して〔ママ〕一息ついた頃、実業家であれば引退する前のまだ脂がのっている頃がいいのかもしれない」というのがある。
7月19日は鷹取教会の方々とバスハイクに行っている。香住鶴(かすみがつる)の酒蔵に行ったり、撤去される前の余部鉄橋を見たり、有馬温泉に行ったり。どれも初めてだったけど、有馬温泉に行けたのはとてもよかった。
クレジットカードを紛失したのも7月だったか。結果的には再発行してもらうことになったけど、悪用されなかったのは不幸中の幸い。
7月下旬ごろからPicasaウェブアルバムを使い始めたようだ。これがおもな理由でのちにグーグルの有料サービス(容量アップ)を利用するようになった。
8月13日に鞍馬山に登りに行っているが、これはよく覚えている。その翌日に予約していたiPhone4を受け取って、その足で帰省の途に就いたのであった。8月15日の記録には「いつか大畠駅で降りてみたい」とあるので、いつか大畠駅で降りてみよう。たぶん海沿いの景色がきれいだと思ってそう書いたのだろう。8月19日にはふらっと源じいの森温泉に行っている。なつかしい。
8月24日に映画監督の今敏さんが亡くなっている。彼が監督した作品はけっこう好きだったので残念。8月下旬にまた東京出張。今年はよく東京に行った。8月31日には吹田キャンパスであった某クローズドなワークショップで英語で発表している。準備でだいぶ神経をすり減らしたけど、まあいい経験になった。
9月2日の記述「DeCoCiSでやっている論点抽出カフェや統合的p(TA)会議のようなものを「冤罪を生まないための社会制度」あるいは「司法制度のあり方一般」みたいなことについてやれば、DeCoCiSでやっているテーマよりも結構いい線行くんじゃないだろうか。もちろんDeCoCiSではできないけど」はほんとうにいつかやりたい。
9月上旬にっふらっと福井旅行。敦賀駅で食べたおぼろそばはうまかったなあ。
9月中旬に鹿児島で開かれた第7回九州山口地区臨床倫理集中講座に参加。いろいろな方とお話ができてよかった。9月下旬頃からプライベートな話題は表向きのツイッターアカウントではつぶなかないように。
チェコ語を習い始めたのは10月だったか。チェコ語を教えてくれていた人とは3ヶ月間いろいろな話ができて本当によかった。
10月上旬に日本倫理学会に参加するために東京出張。発表もしないのによくいろんな学会に参加したものである。10月11日に青年団の演劇を初めて観劇。13日には中之島哲学コレージュで哲学カフェ「クジラを食べてもよいか?」の進行役を務めている。
10月中旬に日本医学哲学・倫理学会に参加するため初めて東北(岩手県盛岡市)へ。このころ論文を一つ投稿している。年明けぐらいに出るのだろうか。
11月の中旬ごろだろうか、このころになるとプライベートなつぶやきがかなり影を潜めているので正確に跡を辿れないのだが、痔の手術をしてしばらく苦しんでいた。11月末に大阪府立大学で開かれていた日本科学哲学会のシンポジウム「ロボット工学と哲学――学際融合研究での科学哲学の役割」に出席している。
12月2日のつぶやきは興味深い。
今日判決のあった二つの殺人事件。不倫をバラされることを恐れて交際相手を殺害した米原女性殺害事件は無期懲役の求刑に対し罪を認めていないのに懲役17年の判決。他方、弁護側も検察側も心神耗弱であることを認めていた中大教授殺害事件は、本人も罪を認めているけど求刑20年に対して懲役18年。
米原の事件は物証がない上に被告人が捜査段階から一貫して無実を主張しているという裁判だが、裁判所は「被告の供述は不自然・不合理で信用できない」とした以上、被告人が罪を認めないのは反省していないことだと同時に認めなければならないはずなのだが、この二つの量刑の公正さはどう理解すべきか。
12月22日には中之島哲学コレージュのセミナー「社会人基礎力とは?」の進行役を務めている。
12月は概して年末の雑用や一年の振り返りなどであっという間に過ぎ去った月であった(といっても、まだ月が変わり年が変わるまでには40分近くあるが)。
さすがに疲れた。
それではみなさん、今年はお世話になりました。来年も良い年をお迎えください。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
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2010年12月28日(火)に阪大生協書籍部豊中店で10%オフにて購入し、翌29日に読み始め、30日に読み終える。
訳文が自然な日本語で読みやすく、「訳者あとがき」にもあるように訳者の苦労が目に浮かぶ。また「訳者解題」ではサンデルの立場やエンハンスメントに関連する議論が必要最小限でコンパクトにまとめられており、一般の読者にとってもわたしのような勉強不足の者にとってもたいへんありがたい。ただ、新書の3分の2程度の分量ながら1,890円は少々高い。ナカニシヤ出版さん、そんな売れない本でもないだろうし(じっさい売れているみたいだし)、もう少し価格を安く設定してください、と言いたいところ。
121頁にある「ヒト」「人間の生命」「人間」「人格」あたりの区別がわかりづらくて混乱した。
翻訳121頁のわかりづらかった箇所について、原書を参照してみた。
…この道徳的地位同等論も以下の二つの側面では妥当性を有していることを、あらかじめ確認しておきたい。第一に、この立場では、人格の不可侵性をまったく顧慮することもなく費用便益の比較衡量をおこなう功利主義的な見解は、正当にも否定されている。第二に、少なくとも胚盤胞は死んでいるのではなく生きており、ウシなどの生き物とは違ってヒトであるという明らかな意味において、胚盤胞が「人間の生命」であることは否定できない。だが、こうした生物学的な事実から、胚盤胞は人間であるとか人格であるといった結論が導き出されるわけではない。いかなる生きたヒト細胞(例えば、皮膚細胞など)も、ウシではなくヒトであるとか、死んでいるのではなく生きているという意味では、紛れもなく「人間の生命」である。しかし、だからといって、誰一人として皮膚細胞は人格であるなどと考えたり、それに不可侵性を認めたりはしないだろう。胚盤胞が人間や人格であるということを示すためには、さらなる論証が必要なのである。(マイケル・J・サンデル(林芳紀、伊吹友秀訳)『完全な人間を目指さなくてもよい理由――遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』ナカニシヤ出版、2010年
、121頁)
…I want to acknowledge the validity of two aspects of the equal-moral-status position. First, it rightly rejects the utilitarian view of morality, which weighs costs and benefits without regard for the inviolability of persons. Second, it is undeniable that the blastocyst is “human life,” at least in the obvious sense that it is living rather than dead, and human rather than, say, bovine. But it does not follow from this biological fact that the blastocyst is a human being, or a person. Any living human cell (a skin cell, for example) is “human life” in the sense of being human rather than bovine and living rather than dead. But no one would consider a skin cell a person, or deem it inviolable. Showing that a blastocyst is a human being, or a person, requires further argument. (Sandel Michael, The Case against Perfection: Ethics in the Age of Genetic Engineering, Belknap Press of Harvard University Press, 2007, p. 115.)
予想していた通りだけど、問題は”human life”の訳。これが「人間の生命」ではなく「ヒトの生命」と訳されていたら混乱しなかったように思う。とくにサンデルは生物学的な意味でのヒトという以上に人格を認められるような主体としての人間について言及するときには、(少なくともここでは)”human”ではなく”human being”と表現している(ような気がする)。「ヒト細胞(human cell)」や「ウシではなくヒト(human rather than bovine)」のように”human life”は「ヒトの生命」と訳した方がいいような気がする。