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伊関友伸『まちに病院を!――住民が地域医療をつくる』岩波ブックレット、2009年

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 2011年2月14日(月)に阪大生協書籍部豊中店にて科研費で購入。2011年2月22日(火)に読み始め、23日(水)読み終える。

 本書で論じられているように地域医療を住民が中心となって盛り上げていく(著者は副題にもあるように「つくる」という表現を使っているが)というのは、わたしも大事なことだと思う。また、関連するデータや住民が地域医療の改革に積極的な役割を果たしてきた事例が紹介されていて、たいへん勉強になった。その上であえて辛口にコメントしておきたい。

 本書全体をとおして一番印象に残ったのは医師に対する無批判な姿勢・論調であった。たしかに最終段落で書かれているように「医師と言う人材資源は有限」(70頁)であり、医師なしには医療は成り立たないのかもしれないが、医療を担っているのは医師だけではなく、有限なのは何も医師だけに限ったことではないはずなのである。ところが医師には手厚い待遇で感謝の意とともに招待し、看護師にはボランティアでタダ働きさせることをよしとする(32-3頁)。筆者が言うように人任せではなく当事者として住民が地域医療をつくっていくことが重要であり、そのために住民が骨を折ることも必要なのだとすれば、同じように当事者である医師にも痛みを分かち合ってもらいたいものである。

 このこと以上に問題だと思うのは、全体として議論のつじつまが合っていないように思われる点である。いみじくも筆者が冒頭で「OECD(経済協力開発機構)諸国の人口1000人あたりの医師数で比較すると、OECDの平均は3.1人ですが、日本は2.1人(調査30ヵ国中27番目)になっています(OECDヘルスデータ2009)」(7頁)と述べているように、医師の数がそもそも不足しているのである。もちろん筆者は日本における入院日数の長さ(9頁)、病床数の多さ(9頁)、および新しい臨床研修医制度(4-5頁)についても触れている。しかしながら医師の数が不足しているという事実に変わりはないはずである。したがって、住民が一生懸命頑張って医師を他の地域から呼んできたとしても、その分どこかの医師が手薄になるわけである。なるほど、本書で紹介されている事例は兵庫県西脇市、宮崎県延岡市、滋賀県東近江市、および岐阜県下呂市とどれも地方都市であった。そのため都市部に医師が集中しているという想定のもとに、都市部から地方へと医師が移動するのであれば医師が流出した都市部で医師が手薄になることはないのではないかと考える者がいるかもしれない。しかしながら「救急医療も医師不足で救急告示をする病院が減少、受け入れをする病院の病床も万床のため患者受け入れまでに時間がかか」っており、なかでも「収容するまでにかかる時間がもっとも長いのは東京都で49.5分。そのほか千葉県が40.7分、埼玉県が40.6分など、首都圏で時間がかかっている」(2頁)はずではなかったのか。

 たしかに住民が中心となって積極的に医療行政に関わっていくことはこれからの民主主義のあり方として必要なことだと思うが、それによって現在の日本における医師不足の問題が解決されることはないのである。

浜渦辰二「脳死臓器移植問題への現象学的アプローチにむけて」『待兼山論叢 哲学篇』第44号、2010年12月、1-18頁

 先ほど(2011年2月9日)抜刷をいただいたので、ざっと読んでみた。殴り書きしたので、引用文で著者が付けていた傍点や引用する際のタイプミス・誤変換などは、あらためて見なおす。

 題名に「現象学的アプローチ」とあるが、結局最後まで何が現象学的アプローチなのか分からないままだった。そもそも現象学というものが分からないので、当然に現象学的アプローチも何なのかわからないということになる。それは著者が臓器移植を受ける本人を1人称とし、家族を2人称、そして脳死判定を3人称としているようなパースペクティブのことなのだろうか。それにしても、そもそもこの区分がうまく飲み込めない。こういう切り方と人称のあてはめ方にどれだけの合理性があるのだろうか。

 臓器移植法に関する著者の(紹介する)下記の指摘は的を得ている。

 しかし、この「本人の意思が不明でも構わない」という改正法の変更点は、臓器移植法の「基本理念」(改正によっても変更のなかった第2条)に反するのではないか、と指摘されている。この「基本的理念」には、「死亡した者が生存中に有していた自己の臓器の移植術に使用されるための提供に関する意思は、尊重されなければならない」(傍点筆者、以下同様)とある。改正法においても、提供する意思も提供しない意思も尊重されることは確かだが、何も意思を表示していない人が家族の承諾によって提供することいなるのは、はたして、本人の意思を尊重していることになるのか。続いて同第2項は、「移植術に使用されるための臓器の提供は、任意にされたものでなければならない」とあるが、その意思が不明の時に、その臓器の提供は「任意に(自由意思によって)なされた」ものと呼べるのか。さらに同第3項には、「臓器の移植は、移植術に使用されるための臓器が人道的に精神に基づいて提供されるものであることにかんがみ……」とあるが、本人の意思が不明の時に、それは果たして「人道的精神に基づいて」と呼べるか。ここで言われているのは、本人の「人道的精神」のはずだが、改正法はそれが「誰かの役に立てたい」という家族の「人道的精神」に変貌してしまったと言わざるをえない。(4頁)

 続いて旧法における「遺族及び家族の範囲」について。

旧法の「臓器の移植に関する法律の運用に関する指針(ガイドライン)」において、「遺族及び家族の範囲」とは「原則として、配偶者、子、父母、孫、祖父母及び同居の親族」とされ、「喪主又は祭祀主宰者となるべき者」が「総意を取りまとめることが適当である」とされていたので、上記家族の一人でも反対する人がいて、総意が取りまとめられないとなると、臓器提供は不可能となる。この点、改正法でも、「喪主又は祭祀主宰者となるべき者」が「これらの者の代表となるべきもの」とされたのみで、変わっていない。旧法は、本人の「自己決定権」とそれを行使することに対して家族の総意が承諾をするという、あくまでも両方の条件が満たされる必要があったのに、改正法では、前者の条件が不要となり、家族が承諾する限り、脳死からの臓器移植はかのうになった。(5頁)

 次の個所は二つ気になるところがある。一つは改正法について著者が論じている「家族からの申し出がない場合でも、脳死からの臓器移植の候補者として、医療従事者の側からアプローチするようになり」という点で、ここでアプローチというのが何を意味しているのかは分からないが、もしそれが脳死臓器移植についての案内もしくは情報提供のようなものだとすれば、現実には家族からの申し出がない限りそのようなことは行われないことになっていたはずである。もう一つは「家族の決断の重みは、まったく異質なものとなった」という箇所で、そもそもここで「異質」というのはどういう状態の変化を指して異質と言っているのかよくわからず、しかもその異質になったという主語が「重み」であるということに考え合わせればさらに分からなくなってしまうのである。

……旧法であれば、脳死からの臓器移植は、あくまでも本人の書面による意思表示があることが第一条件であったため、もしそれが残されていれば、それが家族に本人の意思を尊重したいとの決断の後押しをして、家族が申し出をすることになる。ところが、改正法では、本人の意思が不明で、だからこそ、家族からの申し出がない場合でも、脳死からの臓器移植の候補者として、医療従事者の側からアプローチするようになり、家族が承諾しさえすれば、脳死判定から臓器移植へ進むことができる。臓器提供をしようとするなら、残された時間はそんなにないというなかで、家族は決断を迫られることになるが、そんな状態で下した結論が、どちらにしても果たして公開の残らないものとなるかどうか。家族の決断の重みは、まったく異質なものとなったと言っても過言ではなかろう。(6頁)

 次は改正法から設けられた親族への優先提供について、ここで親族に含まれる範囲と家族承諾というときの「遺族及び家族の範囲」とが異なるということを著者が指摘している箇所。この視点は、たんに「親族、遺族、家族などによって意味や範囲が異なる」という回答だけでは答えきれない含意があり、なかなか面白いと思う。でも引用しながら思ったのだが、こういうズレの指摘の根底にあるのは、親族、遺族、家族などをひっくるめて「家族、すなわち2人称」としてしまう著者の前提なのではなかろうか。冒頭でも触れたように、わたしは著者の本論文における人称の割り当てには少なからぬ違和感を覚えている。それでも、繰り返しになるがこの指摘は興味深い。

〔改正法では〕「親族への優先提供」が行われることになる。しかも、その親族とは、「配偶者、子ども及び父母」と限定された。家族への優先提供が行われる脳死・臓器移植を承諾するのも家族である(しかも、その家族の範囲は微妙に異なる)という、言わば死体・臓器の所有権は家族にあるという考えが、移植機会の公平性よりも重視されることになる。(6頁)

 ただ、上に続く次の個所はよく分からない。なぜこれが「家族による臓器の所有権の主張」(7頁)へと議論が飛躍するのか分からない。まあ、著者も「思われる」と結んでいて断定はしていないので、認識の違いと言えばそれまでだけど、紙幅の制約があるとしてもここらへんの議論はもう少し慎重にしてほしいところ。

この「親族への優先提供」という改正によって、提供の意思表示をする人が増えたとも言われているが、改正法は家族の問題を、本来あるべき家族による看取りという姿から家族による臓器の所有権の主張へと、奇妙に肥大させてしまったように思われる。(7頁)

 次の箇所はオプト・イン方式とオプト・アウト方式についての説明を言い換えた箇所であるが、例えが正確でないような気がする。おそらく「所有権」とか「社会の共有財産」というところに引っかかりをおぼえているのだろう。

更に言い換えれば、旧法では、臓器は原則的には本人の所有物であり、あえて所有権を放棄して臓器提供をするという意思を表示した人だけが例外として扱われて提供することになるのに対して、改正法では、臓器は原則的に本人の所有物ではなく、言わば社会の共有財産であり、あえて所有権を主張して臓器提供を拒否するという意思を表示した人だけが例外として扱われて提供が行われないことになる(所有権を主張しない限り所有物にはならず、共有財産として扱われる)、と言えよう。(9頁)

 10頁5行目に付された注の(9)の前半は、実際の法律と照らし合わせるとかなりおかしい。生きている身体、死後の身体、およびそれらについての所有権や法律上の扱いというのは、自分のものだと思い込んで長年使い続けてきた土地に対する所有権が主張できるというようなものとはだいぶ異なるはずである。

(9)法律的には、〔身体が〕どこからの贈り物にせよ、自分が長年使用してきたものについては、所有権を主張できるようであるが、いま法律について争うつもりはない。しかし、法律的には、所有権と処分権とは別物であって、所有権をもっているからといって勝手に処分できるとは言えないようである。(17頁)

 次の箇所は主語と述語がうまく結ばれていないように思われる。

「脳死は一律に人の死」というマスコミの不正確な図式には、〔中略〕誤解を孕んでいた。(10頁)

 次の箇所はもう少し掘り下げて議論すると面白そうだ。

臓器摘出の条件(第6条第1項)と脳死判定の条件(第6条第3項)とが、別々になっていること(これは旧法の標記に従ったものとはいえ)も、両者を離して考え、脳死判定はするが臓器摘出はしない、という選択肢に可能性を残しているようにも見えるが、ここでは器具の可能性にとどめておく。(11頁)

 次の箇所はちょくちょく本や論文で見るけど、いつも忘れてしまうので備忘録として引用しておく。

 1968年の米国ハーバード大学医学部の脳死の定義に関する特別委員会は、全脳死(報告書の表現では「不可逆的昏睡(coma dépassé)」だった)を市の新しい基準として定義した。これを受けて、1981年に出された米国統一死亡判定法では、「[死の判定](1)循環と呼吸機能の不可逆的停止、または、(2)脳幹を含む全脳のすべての不可逆的停止に陥った人は死んでいる。死の判定は、容認された医学的基準に従ってなされなければならない」とされた。これは、心臓死と並んで脳死も人の死とする法律と言えよう。(12頁)

 これに続く次の箇所について上げ足を取るようなつっこみ。問題は「米国がいかに臓器移植大国であるかが分かる」というところで、確かに言いたいことは分かるし実際米国は臓器移植大国なんだろうが、ここで日本で過去10年間に行われた心臓移植の数と米国の1年間あたりの心臓移植の数(を10倍したもの)を比較したところで、米国が臓器移植大国であるかどうかは定まらないはず。もちろん、そもそも何をもって大国とするのか、つまり客観的な数で線引きをするのか、それとも相対的に考えるのかにもよるのだけど。

米国では、1990年以降ずっと、年間2千件以上の心臓移植が行われてきている。それに比べると、日本では、1997年の臓器移植法の成立後、1999年から2010年までに脳死からの臓器移植が合計86件、そのうち心臓移植は70件であり、まったく比較にならない数字で、米国がいかに臓器移植大国であるかが分かる。(12頁)

美馬達哉『脳のエシックス――脳神経倫理学入門』人文書院、2010年

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 2010年12月28日(火)に阪大生協書籍部豊中店で10%オフにて購入し、30日に読み始め、31日に読み終える。

 第5章までは入門書としてそこそこ面白く読めたけど、第6章以降の『現代思想』的な文章は正直お腹一杯でいらない。

マイケル・J・サンデル(林芳紀、伊吹友秀訳)『完全な人間を目指さなくてもよい理由――遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』ナカニシヤ出版、2010年

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 2010年12月28日(火)に阪大生協書籍部豊中店で10%オフにて購入し、翌29日に読み始め、30日に読み終える。

 訳文が自然な日本語で読みやすく、「訳者あとがき」にもあるように訳者の苦労が目に浮かぶ。また「訳者解題」ではサンデルの立場やエンハンスメントに関連する議論が必要最小限でコンパクトにまとめられており、一般の読者にとってもわたしのような勉強不足の者にとってもたいへんありがたい。ただ、新書の3分の2程度の分量ながら1,890円は少々高い。ナカニシヤ出版さん、そんな売れない本でもないだろうし(じっさい売れているみたいだし)、もう少し価格を安く設定してください、と言いたいところ。

 121頁にある「ヒト」「人間の生命」「人間」「人格」あたりの区別がわかりづらくて混乱した。

追記20110107

 翻訳121頁のわかりづらかった箇所について、原書を参照してみた。

…この道徳的地位同等論も以下の二つの側面では妥当性を有していることを、あらかじめ確認しておきたい。第一に、この立場では、人格の不可侵性をまったく顧慮することもなく費用便益の比較衡量をおこなう功利主義的な見解は、正当にも否定されている。第二に、少なくとも胚盤胞は死んでいるのではなく生きており、ウシなどの生き物とは違ってヒトであるという明らかな意味において、胚盤胞が「人間の生命」であることは否定できない。だが、こうした生物学的な事実から、胚盤胞は人間であるとか人格であるといった結論が導き出されるわけではない。いかなる生きたヒト細胞(例えば、皮膚細胞など)も、ウシではなくヒトであるとか、死んでいるのではなく生きているという意味では、紛れもなく「人間の生命」である。しかし、だからといって、誰一人として皮膚細胞は人格であるなどと考えたり、それに不可侵性を認めたりはしないだろう。胚盤胞が人間や人格であるということを示すためには、さらなる論証が必要なのである。(マイケル・J・サンデル(林芳紀、伊吹友秀訳)『完全な人間を目指さなくてもよい理由――遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』ナカニシヤ出版、2010年
、121頁)

…I want to acknowledge the validity of two aspects of the equal-moral-status position. First, it rightly rejects the utilitarian view of morality, which weighs costs and benefits without regard for the inviolability of persons. Second, it is undeniable that the blastocyst is “human life,” at least in the obvious sense that it is living rather than dead, and human rather than, say, bovine. But it does not follow from this biological fact that the blastocyst is a human being, or a person. Any living human cell (a skin cell, for example) is “human life” in the sense of being human rather than bovine and living rather than dead. But no one would consider a skin cell a person, or deem it inviolable. Showing that a blastocyst is a human being, or a person, requires further argument. (Sandel Michael, The Case against Perfection: Ethics in the Age of Genetic Engineering, Belknap Press of Harvard University Press, 2007, p. 115.)

 予想していた通りだけど、問題は”human life”の訳。これが「人間の生命」ではなく「ヒトの生命」と訳されていたら混乱しなかったように思う。とくにサンデルは生物学的な意味でのヒトという以上に人格を認められるような主体としての人間について言及するときには、(少なくともここでは)”human”ではなく”human being”と表現している(ような気がする)。「ヒト細胞(human cell)」や「ウシではなくヒト(human rather than bovine)」のように”human life”は「ヒトの生命」と訳した方がいいような気がする。

小寺信良『USTREAMがメディアを変える』ちくま新書、2010年

 阪大生協書籍部豊中店にて2010年11月16日(火)に15%オフにて購入。11月27日(土)に読了。いつ読み始めたのかは例によって覚えていないけど、1週間ほどかけて読んだと思う。読みものとしてなかなかおもしろかった。

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 ユーストリーム上の「ドミューン(DOMMUNE)」という放送をもとに論じられた次の箇所は興味深い。

 これまで日本では、違法性があるというのであれば事業化しなかったものだが、米国では事情が違っていた。可能性があるビジネスであれば、法を改正して違法にならないようにする、という動きをする。また、違法であったとしても、やってしまってビジネスモデルを作り、関係者への和解金支払いで解決する例もある。特にスピードが勝負のネットビジネスにおいては、このような米国型のスタイルは強い。

 このような米国の動き、そして実際に米国初のビジネスが日本に退去して押し寄せてきた現状に、日本でも「ルールは現状に合うように変えるべき」という動きがでてきた。ドミューンはその先鋒となるサービスとなるかもしれない。(125-6頁)

 「ドミューン(DOMMUNE)」ではDJプレイを通じて楽曲を使用しており、作詞・作曲家などへはJASRACなどの管理団体を通じて(といってもその仕組みやプロセスに多くの疑問が投げかけられていることは周知の事実であるが)著作権料を支払っているものの、著作隣接権の一つである原盤権をもつレコード製作者へは必要な使用料を支払っていないという。支払うつもりはあるものの、それを引き受けてくれる管理団体がないために楽曲を無断使用している状態が続いているのだそうである。

 「テレビ番組は誰が作っているのか?」(160-3頁)で述べられている内製率については、去年NHKで聞いたのと同じ内容。「テレビ産業の疲弊」(165-7頁)の内容とあわせて考えると深刻な問題である。

 「コピー制限がテレビ視聴文化を壊した」(178-81頁)というのはまさにその通り。

 NHKオンデマンドに関する認可基準が日本におけるテレビ番組のオンデマンドサービスの発展を阻害する原因になっていたというのは知らなかった。(182頁)

 慣習的に肖像権の許諾は、全員に書面で許諾を取る必要はなく、来場者全員に「カメラに写り、配信される可能性がある」ということを口頭で周知する程度で済んでいる。どうしても写りたくないという人がいる場合は、写る可能性がない位置、たとえばカメラのうしろ側などへ移動してもらうことが妥当で、それを理由に退場させるという処置は望ましくない。(196-7頁)

 なるほど。

 現在ネットで話題になった放送の文字起こしを行っているのが、「書き起こし.com」(http://www.kakiokosi.com)である。書き起こし作業はボランティアベースで行われているようだが、元々文字起こし作業というのは、出版業界においてはインタビューをテキスト化するなどの用途が多いため、専門業者も多く存在する。(209頁)

 これは気になる。このあとで著者は書き起こしの許諾権や発言の著作権等について論じている。そこらへんの法整備もきちんとしないといけないのだろうが、これまでの経験上そういうことはあまり期待できそうもない。