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哲学カフェのはじめ方

0. はじめに

 哲学カフェのうわさを聞いて参加してみようと思ったけど、近所ではやっていない。自分たちで始めるにしても、どうすればいいかわからない、という人がいるかもしれない。ここでは哲学カフェをはじめたい人のために、要点をまとめてみた。詳しい説明はあとの方に書いてある。少しずつ書き足していく予定。

1. ダメな哲学カフェの特徴

 まずダメな哲学カフェの特徴についてまとめてみた。なぜはじめによい哲学カフェの特徴ではなくダメな哲学カフェの特徴をもってくるのか疑問に思う人もいるかもしれないので、その点について少しだけ触れておく。

 よい哲学カフェの特徴は、それがあればあるだけ哲学カフェがよくなる(と私が考える)ものであるが、それがあるからといってたんなる会話や議論や立ち話が哲学カフェになるというものではない。逆にダメな哲学カフェの特徴は、それがなければ哲学カフェが成り立たなくなってしまうかもしれない(と私が考える)ような特徴である。私が挙げたダメな哲学カフェの特徴があるからといって即座に哲学カフェが成り立たなくなるとは限らないし、複数のダメな哲学カフェの特徴が組み合わさることで哲学カフェが成り立たなくなることもあるだろう。だが、いずれにせよダメな哲学カフェの特徴は哲学カフェが成り立つための必要条件に近いものとして私は考えており、これがよい哲学カフェの特徴ではなくダメな哲学カフェの特徴をはじめに挙げる理由である。

 以下、ダメな哲学カフェの特徴(少しずつ加筆修正)。

  • 進行役、話題提供者、講師、もしくは主催者側の誰かが、参加者に対して何かを説明したり教えたりする
  • 参加者同士の関係が水平ではない(社会的地位や身分など、社会の関係を哲学カフェのなかに持ち込むのはご法度。そうならないための工夫が必要)
  • 事前登録がないと参加できない
  • 会員にだけ開かれている
  • 所属や名前を参加や発言に際して求められる
  • 貸し会議室のような閉鎖的な空間で行われている
  • 窓がない閉じた空間で行われている
  • 机(と椅子)の配置が小中高の教室のように一方向(図がほしい)
  • 専門用語が飛び交っている
  • 同じ人ばかりが長く話している
  • 発言を強要される

1. 1. 進行役、話題提供者、講師、もしくは主催者側の誰かが、参加者に対して何かを説明したり教えたりする

 哲学カフェは何かを教えたり教えられたりするものではない。そこには教師もいなければ生徒もいない。だから哲学カフェに行けば何かを教えてもらえると思っている人は、哲学カフェに参加してがっかりするだろう。

 社会の問題について地元の人たちに考えてもらおうとして哲学カフェを始める人も、うまくいかない可能性がある。そこには無知な人びとを啓蒙してやろうという意図が隠れているのかもしれない。また、特定の問題を取り上げるときに前提となる知識を参加者と共有できていない場合には、主催者側がそれを説明しようとするかもしれない。何か教えてもらえるものなのだと思って参加している人は(そしてそういう参加者は実際に少なからずいるものだが)、容易に教える教えられるの関係に陥ってしまう。しかし、これはもはや哲学カフェというよりたんなる講演会である。だから哲学カフェを始めるときには、特定の問題から入らないというのがひとつのやり方である。

1. 2. 参加者同士の関係が水平ではない

 哲学カフェには教師も生徒もいないため、教える進行役も教えられる参加者もいない。また参加者同士でも、教える参加者、教えられる参加者が出てこないように工夫しなければならない。進行役には特別な役割があるものの、それを除けばその場にいるすべての人が水平な関係で議論するのが哲学カフェである。したがって、社会的地位や身分など、社会のなかでの関係を哲学カフェには持ち込まないようにしなければならない。講演会やセミナーでは質問するときに所属と名前を言わされることがある。それを省略していきなり質問から始めると「すみません、まず初めに所属とお名前を」と注意されたりもする。

 哲学カフェでは逆に所属や名前を言わないようにしなければならない。進行役と参加者、あるいは参加者同士が顔見知りであっても、お互いに名前で呼ばないようにしないと、他の参加者が疎外感を感じて発言しづらくなるだろう。あるいは哲学カフェで何かありがたいことを教えてもらえるものだと思っている人は、大学教授を名乗る人の話を聞こうとして、他の人の発言を無視して、一方的に特定の参加者にばかり質問をするかもしれない。

 知っている人同士であったとしても「さきほど発言された方」「そちらの帽子をかぶっておられる方」のように話す工夫が必要である。

1. 3. 専門用語が飛び交っている

 専門用語を使うと、それを知らない参加者は議論に参加できなくなる。専門用語を使うことで、それを知っている自分を高みに置こうとする人、難しい言葉で他の参加者を煙に巻こうとする人がいる。よくよく話を聞いてみると、よくそのことばを知らなかったり、誤解していたりすることも少なくない。哲学を実践する上で重要なことは、自分のことばで語ることである。自分の言葉で語れないのは、ことばが上滑りしている状態である。

 専門用語の解説を求めると、そこに教える教えられるという関係が生じてしまう。それ以前に、もし本当に平易なことばで説明できるのだとすれば、そもそも専門用語を使う必要はないはずだし、平易な言葉で説明できなのであれば、その用語を使った人がその用語を十分に理解していないのか、あるいは理解したつもりになっていたとしても少なくとも他の参加者とは共有できないものだということである。

 だから、専門用語は使わないようにということを哲学カフェでは最初に確認しておこう。

1. 4. 机(と椅子)の配置が小中高の教室のように一方向

 哲学カフェをやる上で、場所の選び方はとても重要である。小中高の教室や大学の講義室のように机が一方向に並んでいる場所では極めて対話が起こりにくい。小学校の学級委員会で一番前に座っている児童が立ち上がり、じっと正面を見据えて意見を述べる風景は、なんともシニカルである。

 対話をする上で重要なことは、お互いの顔が見えるということである。机の有無はともかくとして、椅子は多少自由に動かして自分の位置を微調整できるぐらいの方がよい。一度座ったら途中で席を立ったり抜けたりできないような配置もよくない。哲学カフェは参加したいときに自由に参加でき、退出したいときには自由に退出できるのでなければならない。この点に関する理由についてはあとで述べる。

1. 5. 発言を強要される

 この項目では、発言が強要されること、発言の回数などができるだけ平等になるように進行役が発言させようとすること、あるいはごく一部の人に発言が集中することの弊害などについて書く。

1. 6. 閉鎖的な空間、窓のない部屋

 哲学カフェを貸し会議室のような閉じた場所でやったとしたらどうだろう。初めての人は参加しづらいだろうし、途中で出たり入ったりするのに抵抗を感じるだろう。哲学カフェをやるならば、できるだけ開放的な空間で、外から何をやっているのか確認でき、自由に出入りできるような場所がいい。開放的なイベントスペース、喫茶店など哲学カフェに最適な場所を探すのも哲学カフェを始める醍醐味の一つかもしれない。喫茶店など飲食店で開催する場合には、喫煙か禁煙かに注意を払ったほうがよい。また、店内の他のお客さんに迷惑にならないか、店内は騒がしくないか、音楽などがうるさくないかなどに注意するとよい。

2. 哲学カフェの要件

 哲学カフェが哲学カフェであるための要件について考えてみたい。

  • 進行役がいること
  • 進行役の権限・役割についてはいろいろ考え方があるし状況によると思う
  • 進行役と参加者の関係は、(限りなく)フラットであること
  • 誰でも自由に出入りできる公共的かつ開放的な空間で行われていること

3. 哲学カフェで大事にしたいこと

3. 1. 沈黙を大事にする

 哲学カフェでは沈黙が続くことがしばしばある。哲学カフェを始めてから誰かが最初に発言するまでのあいだ、参加者がとても長い話をしたあと、参加者の発言がその場にいるほとんどすべての人たちにとってちんぷんかんぷんだったとき、上から目線で講釈を垂れるような発言のあと、みんなが非難したくなるような発言のあと、などなど、とにかく哲学カフェではしばしば沈黙状態が起こる。それでも、沈黙が起こるからといって、あるいは時間が無駄にすぎるからといって、むやみに進行役が何か気の利いたことを言おうとしたり合いの手を入れたり発言を促したりしない方がいいこともある。もちろんした方がいいこともあるだろう。どういうときにした方がよくて、どういうときにはしない方がよいのかはここではっきり言うことはできない。

4. 進行役の役割

 進行役は何をすべきなのか、進行役はどういう役割を担っているのかという問題については、これまで進行役を経験してきた人たちのなかでもとりわけ意見の分かれるところである。参加者の発言を整理したり要約したりわかりやすく言い換えたりするのは進行役の役割なのだろうか。おそらく意見が分かれるところだろう。これまでに出てきた意見や発言を整理するという時点ですでに進行役の意識、主観、偏見、解釈、意見といったものが入り込んでくるし、要約、言い換えに至ってはなおさらである。もちろん私は哲学カフェにおいて進行役の主観を一切排除すべきだとかそうしたことが可能だとか主張したいわけではない。ただ、進行役が参加者の意見や発言を整理したり要約したり言い換えたりすることがどういう意味をもつのかということについてじっくり考えておいたほうがよさそうだということが言いたいのである。

5. 気をつけたいこと

 この項では、哲学カフェを実施するなかで気づいたことについて書く。

食い逃げ問題

 哲学カフェの参加費をどうするのかについては意見がわかれるところだろう。私は原則無料にすべきだと思っているが、なかには時間を割いてサービスを提供しているのだから金を取って有料でやるべきだと考えている人もいる。いまは哲学カフェを無料にするのか有料にするのかは書かないでおく。純粋な参加費が無料だとしても、喫茶店を借りてやる場合などに飲み物代が発生することがある。哲学カフェではある程度の人数が来ることを想定して、まとまった場所のとれる喫茶店を探し、たとえば普段はあまり使われていない2階の客席や離れになった部屋などを使わせてもらうことがある。ところが、途中からでも自由に参加したり退席したりできるということを売りにしている哲学カフェの場合、途中で買える人が自分の飲食代を払わないまま帰ってしまうことができてしまうし、最後までいる人でもすっと黙って帰られると支払いをしていないことに気づかないことがある。実際、人数が多くなると、またあまりよく知らない人がいたりすると食い逃げ問題がちょくちょく起こってくる。

 これについてはいくつかの対処法が考えられる。一つは先払いにすること。これにはさらに二通りの選択肢が考えられ、お店の人に直接支払ってもらう場合と、主催者側でまとめる場合である。お店の人に直接支払ってもらうのは最も確実ではあるが、レジは離れたところにあるので、お釣りの準備などで面倒をかけることになる。主催者側でまとめる場合にはお釣りの準備がやはり大変になる。そこで、なかには飲み物代にいくらか上乗せした定額を参加費として徴収する人たちもいる。これは上で書いた哲学カフェを無料でやるのか有料にするのかというところとも関わってくるところである。


6. 避難所

 以下、書きかけの文章やボツになった文章など。

タイトル考え中

 タイトルをどうするか考えていたときの軌跡。いちおう残しておく。

  • 哲学カフェを始めたい人のために
  • 哲学カフェ入門
  • 哲学カフェの作り方
  • 哲学カフェの始め方

(追記20120928:先日のシネマ哲学カフェ20120923のあと、某後輩からカフェフィロのメンバーが中心となって『哲学カフェの開き方』という本の出版を準備しているという話を初めて聞く。哲学カフェについての本を出版しているというのは聞いていたが、本の題名を聞いてあまりにもこのブログの題名と似ているのでびっくりした。とはいえ、タイトルについて考えていた軌跡(もともと残していたもの)を見てみても、どれも似たようなものばかりだけど「哲学カフェの開き方」はないようだ。これはタイトルについてまだ正式に決めたものではなく暫定的なものと考えていたので、これからも思いついたものをどんどん書き足していき、いつかいいのが思いつけばそれにしようと思って準備していたものなのだが、できるだけ「哲学カフェの開き方」にはならないようにしようと思う)

あとで書くこと

  • 哲学カフェ、ひきこもり、公共的対話、カウンセリング
  • 専門用語の使用などに関して、どこまでが議論の最低限必要な前提条件、知識かということ自体についての認識がすでに参加者同士のあいだでずれているなど

とりとめもないこと

はじめに

 とりとめもないことを書きなぐっていく。書きなぐっては修正する。しかしその修正もおよそ書きなぐりにほかならないから、やはりここに書くことは書きなぐり以外のなにものでもない。最近ではツイッターで適当なことをつぶやいていたけど、思い浮かんだ一連のアイデアを書いてしまう前に中断してしまったり、しばらくたって同じようなことについてつぶやく場合でも、以前のつぶやきをうまく回収して消化しながらつぶやくということがしにくいのが難点であった。他方で、ツイッターでつぶやくときにはひとつひとつのつぶやきを140字に収めなければならないので、少しはすっきりした文章にしようと努力するのがツイッターのいいところだと思う。そんなこんなで、とりあえずブログで考えていることをまとめていく実験をしてみたい。

編集メモ

 具体的なことから書き始めて抽象的なところへ筆を進めていったらよいのか、その逆の方がよいのか悩むところ。読む人にとっては前者の方がよいのだろうけど。頭に浮かぶ順序は往々にして後者なんだよなあ(具体的な事例に着想を得ているとしても)。

 この点は大学で授業をしていてもいろいろ考えさせられる。具体か抽象かとは別に総論か各論かという区別を考えてみる。総論から各論に入ろうと思うと、どうしても抽象的な話から具体的な話へという流れになりがち。もちろん総論のなかでも具体的な話はできるんだけど、たぶんそこまで言い始めると、そもそも具体についての中身のレベルが違うんだよなあ。

1. 部分と全体

1.1. ある集合の一部について批判するときに気をつけなければならないのは、そのことを全体への批判と取り違える人がいるということである。

1.1.1. このように部分への批判を全体への批判と誤解する人は少なくない。

1.2 「ある集合の一部」とは、例えば個人の行為にについて言えば、個人の行為全体のうち一つまたは全体よりも少ない部分に属する行為のことである。集団で言えば、その集団のうちの一人または全体よりも少ない部分に属する成員のことである。

1.3. ある集合の一部を批判することは、その集合の全否定ではないが、これを全体への批判と取り違える人には全否定のように受け取られる。したがってこのような人から誤解されないためには、当該の批判が全体への批判ではないことを明示的に示すことが実践的には必要である。具体的には全体から批判の対象である部分を引いた残りは批判からは無関係であるという説明をセットにする必要がある。

 「全体から批判の対象である部分を引いた残りは批判からは無関係である」というのは、ほんらいはたんにその残りの部分については批判の対象外であるというだけでよいのだが、実践的によく行われていることは積極的にその残りの部分について擁護することである。これは誠実ではないが、それぐらいおおげさにしておかないと、部分についての批判と全体についての批判の区別がつかない人に誤解されてしまうおそれがある。

 「積極的にその残りの部分について擁護する」とは、例えば公務員の仕事における不真面目さを批判する際に「ほとんどの公務員は一生懸命仕事をしてがんばっている」というのをセットにして言うような場合のことである。

2. ある集合の一部についての批判と全体への批判を取り違える人が批判する側である場合には、部分について批判しているのに全体について批判したものと誤解することになる。

2.1 この場合「あなたが批判しているのは部分でしかなく全体ではない」と指摘するだけでは十分ではないことがある。どうしたものか悩む。この点は、推論においてあいだを飛ばすことについての問題として別途考える。

3. 嫌われること。

3.1. 部分とか全体とかいう人は嫌われる。

3.1.1. 「机上の空論だ」とか「学者は現実離れしている」とか言われる。これはアドホミネム(対人論証/人格攻撃、誹謗中傷のようなものであって、批判や反論になっていない)。

3.2. 「論理的には」という表現を嫌う人がいる。

3. 2. 1. 「論理的には」という表現は使ってよい相手と使わない方がよい相手がいる。

3. 2. 2. 多くの場合、一定の了解をしている「論理的な」空間の中でコミュニケーションをしているはずなので「論理的には」ということばはわざわざ付け加えるほどのものではないはず。ところが、なかには論理的なコミュニケーションに乗っかっていない人もいるし、のっかっているつもりでのっかれていないひともいるので、場合分けが必要。乗っかっていない人は意識している場合とそうでない場合がある。意識している場合には論理的にはと言うことはお互いの立場を鮮明にすることにはなるがそれ以上ではない。むしろ論理的に考えることを押し付けているものとして反論されることになる。意識していない人に対しては話がどこまでいってもかみ合わない。論理的に考えているつもりでそれができていない人に論理的にはと言うと「おれは十分論理的に考えられている」ということで怒ったり不快感を示したりこちらの言うことが論理的であるということを否定したりという行動に出てくる場合がある。けど、そうでない場合もある。相手が何を望んでいるかだよな。いずれにしてもたんにこちらがわの議論の正当性を示すだけのために「論理的には」と使うのはほとんど役に立たない。権威にもとづいて相手にそれを押し付ける場合は詭弁になるし。だいたい、相手と自分の意見がかみ合わないときに「自分の意見のことを論理的だ」と言う人は論理的ではないことがよくあるという自己矛盾的な状況もあるわけで。

推論においてあいだを飛ばすことについて

 推論においてあいだを飛ばす人がいる。より厳密な言い方をすれば、多くの人が説得されるぐらいにはあいだの段階を細かく分けないでいきなり前提から結論へ飛ぶ人がいる。これはどうしたものか。当人にとってはそれで十分だと思っているのだろうから、その信念を変えさせるのはなかなか一筋縄ではいかなさそうだ。これは単純化して考える訓練を受けているいわゆる理系の人間に多い(という推論も、実証的な裏づけがない限りは実はあいだを飛ばしている実例)。

2. 求められている(期待されている)ことと違うことを返す人――なんか途中から違う話になっている

2.1. 求められていることを理解できずにまったく違う反応を示す人というのがいる。たとえば…。間接的な表現、比喩が理解できない人がなんらかの理由(たんにわからないまま過ごしてきただけの人もいれば、脳器質的なところに原因が求められる人もいる)で一定数存在する。

 ただ間接的な表現や比喩表現にも一定の役割、意味があるのであって、そういう点から言えばすべてが直接的なごつごつした表現になればよいというわけではない。とすると、人によって、間接的な表現が通じる人、通じない人と相手によって表現を使い分けるということになるだろうか。

 直接的な表現から始めるといつまでたっても間接的な表現のコミュニケーションには到達しないので(ほんと?)、始めるとしたら間接的な表現からで、それでコミュニケーションの齟齬がある場合には直接的な表現を中心としたコミュニケーションへ移行すればよいのだろうか。そうすると直接的な表現によるコミュニケーションしかできない人は必ず一度は何らかのトラブルを経験することになる。直接的な表現も間接的な表現も理解できる人は「コミュニケーションとはそういうものだ」ということでなんとかなる。逆に直接的な表現しか理解できない人は、トラブルから抜け出せるかどうかを直接的な表現も間接的な表現も理解できる人に一方的に依存することになる。

 どちらのタイプの人かを調べるテストがあればいいな、と言えば、直接的な表現と間接的な表現のどちらも理解できる人は、そんなことしないとコミュニケーションができない人は劣っていると考えるかもしれないし、企業なんかではそういうテストを入社希望者に対してしたがるかもしれない。そして間接的な表現を理解できない人をふるいにかけて排除しようとするかもしれない。

2.2. 欠点がある(突っ込みどころがある)ことを求められているときに、完璧に見せようとすることだけを考える人。完璧であることによって何かと粗を探されて場合によっては不条理な批判をされる。するとさらに自分が完璧であることを見せようとするから、このやりとりはいつまでたっても平行線なまま、一方が他方を評価したりされたりする関係にある場合、評価は下がり続ける。

2.2.1. 欠点がある(突っ込みどころがある)ことを求められていることに気づいている人は、わざわざ相手の求めているような突っ込みどころを用意する。逆に評価する側は、相手が本当にそうした欠点を持っているのか、それともわざわざ用意された欠点なのかを見極められる人とそうでない人がいる。

穴を掘る人

 よく税理士が税務調査に際してお土産(ここでは申告の誤りぐらいの意味でしょうか)を用意するという話があります。ネットで検索すると税理士がその有効性について否定しているものは見つかりますが、そうした行為が行われていることを否定しているものは見当たりません。というよりも、有効性を否定するということを裏返すと、(自分はそのようなことはしてないし、自分の顧客にはそのような不条理なことはさせないとしつつも)実際にはそのようなことが行われているということを認めているわけです。まあここらへんは本筋ではないのでこのぐらいにしておいて。

 

人に「暇ですか?」と予定を聞く人

 英語で言えば”Are you free on next Sunday?”みたいな感じになるのかな。こういうのは別に変ではないのかな?まあ”free”と「暇」ではだいぶニュアンスも意味も違うような気がするけど。

何をどこまでやるべきかということについての意識・認識は個人差があって…

 その認識がずれている集団で仕事をするとすごく非効率で不幸になるということ。やらなくてよいことをやって仕事を増やす人、やらなければならないことをやらなくて仕事を増やす人。連絡するべきこと、共有するべきこと、しなくてよいこと云々。

すなわち、つまり、要するにを多用する人

 「○○○は△△、すなわち□□」みたいな話し方をする人がいる。△△には直喩が入ることが多い。といってもこれでは私自身が読み返してもよくわからないのでなんとかわかりやすい書き方をしないとと思うのだが、とりあえず先を書く。

 文語と口語が使い分けられない人というのがいて、わかりにくい話をする人はそれが関係しているのかもしれない。

行ったり来たりの繰り返し

 授業なんかで、ある立場を紹介する。これだけではまずい(と思う)ので、その問題点を指摘する別の立場を紹介する。たいていの場合2つ目の立場にもいろいろ問題があって、最初の立場の別バージョンか第3の立場があり、第4、第5と続くけど、どこまで説明できるのかについては授業の時間や全体とのバランスなどで限界がある。

 時間が最大限あったとすれば最後に提示するであろう立場を最初に紹介すればよいかといえばそうでもない。たとえば大まかには2項対立のようなものでとらえられることがらであったとすると、他方の立場ではなくなぜそちらの立場を紹介するのかという疑問が生じてくるし、すでに解決されている最初に指摘されるであろう問題点を挙げてくる人も出てくる。だからこそ最初から順序立てて説明するわけで、時間がないからとあいだを端折ってしまうと本末転倒である。

 ということで、最初から第2、第3、せいぜい第4ぐらいまでの立場を紹介したところであとは自分で考えろと振ることが多いし(ほんらい私は学生自身に考えてもらうよう促すべきであるという立場なんだけど)たとえば第4までの立場を紹介したところで説明を終えると、それが完璧だと私が理解している立場だと学生に誤解されるようで困ってしまう。

 というよりも、そもそも何事につけても、紹介した立場がなにもかも紹介する私自身の立場であるかのように誤解する学生が少なくなく、もちろんそうではないということは口が酸っぱくなるぐらい言っているにもかかわらず、そのように誤解されるのにはいろいろと悩んでいる。第三者の立場として紹介することを、その人の立場と誤解してしまう人が世の中には結構多くて、これはずいぶん前から考えている課題の一つ。

人前に出て話せば必ず批判される

 『情熱大陸』の小島慶子(ラジオパーソナリティ)さんの回で印象に残る意見があったので、その部分を起こしてみた。スラッシュの「/」は編集点。番組の比較的後半の部分から。

質問「一方で生意気だとか批判の声もありますが・・・」

小島慶子「何かをしゃべれば必ずあると思います。やっぱり人前に出てしゃべるということは、必ずそういう声はあるんだと思います。ただ、えーと、それも含めてわたしは、んーと、媒体になっているわけですよ。つまりわたしっていう個人を知る人はごく数人しかいないんです。でもしゃべっているわたしっていうパーソナリティ、うん、あのー、私生活っていう意味ではなくて、しゃべっているところに出てるわたしのパーソナリティにその人が何を見るかっていうことはその人が決めることなんですねー。/だから私はよくツイッターでもそういう方とやりとりをするんですけど、はい、だからわたしのことを嫌いならば、えー、なぜあなたがわたしを嫌いなんだろうということを考察することは有効ですね、っていう風に必ず返信するようにしているんです。うん。だれかを嫌いなだけでもエネルギー使うだけですから。でも、自分が小島慶子を嫌いだっていうことは、おそらく自分は生意気さといものをじゃあ仮にね、仮に生意気さというものを嫌悪しているのだろう。なぜ自分が生意気さを嫌悪するかというと/まあ従順であることだとか、あるいは和を重んじて自分を表に出さないということを自分が重んじているからだ。で、なぜ自分がそれを重んじるかというと、ってさかのぼっていくと、自分にとって大切な世界って何だろう、自分にとってあるべき世の中って何だろいうっていうが、その人にとって形になってくるんですよ」

2010年6月30日(水)の日記

 ブログ、ツイッター、wikiなど、情報を蓄積・発信するのに用いているメディアやチャンネルが多くなりすぎて、これらを適切に使い分けることが難しくなってきた。問題の一つは、PukiWikiからMediawikiに乗り換えたもののMediawikiがPukiWikiほど使い勝手が良くなかったということである。とはいえPukiWikiもペイジを作成したときにペイジの名前によっては極端にファイル名が長くなりすぎるなど、いろいろ問題を抱えていたのも事実。情報を効率的に操作できるツールがどんどん出てきても、それらの使い方を覚えるのにかかるコストなどを加味すると、わたしたちの生活はそれほど劇的には変わっていないんだよなあ。思いつく限りではせいぜいパソコンが一般に普及したのとインターネットが普及したことぐらいで、あとは大したことないもんなあ。これに携帯電話の普及を入れるべきだと考える人もいるだろうけど、わたしは携帯電話が普及したことで普段の生活における情報操作が劇的に効率化したとは考えていない。とはいえ以上のような判断をする上で、わたしが記憶の外部化を重視していることが少なからず影響しているであろうことは見積もっておく必要があるかもしれない。

地位および名誉欲について

 なぜ人は地位や名誉を求めるのだろうか。もしこれらが生きていく上で有利に働くというのであれば分からないでもないが、後世に自分の名前を残したいということになると途端に理解することが困難になる。というのも地位や名誉を墓場まで持っていくことはできないわけだから、後世に名前を残すということは当人にとって何の得にもならないように思われるからだ。それではどうして人は死後の名誉まで求めるのだろうか。その理由をもう少し考えてみると、地位や名誉に付随する積極的な価値に引きつられて抱くようになった誤った信念によるもの、あるいは後世にまで地位や名誉が維持されることが子孫の繁栄にとって有利であるという進化論的な理由に基づくものという二つがすぐに思いつく。だが、前者であれば後世に名を残す意味は見出せないし、後者であっても自分の子孫を気遣うことが死んだ者にとってどれ程の意味があることなのかを考えればやはり意味がないように思われる。自分が生きているあいだであれ死んだあとであれ、およそ子孫の繁栄を気遣うことに意味があるのは自分が生きているあいだだけである。まあ私には思いもよらない何かがまだあるのだろうが、それは私には思いもよらないものなのだから、いずれにしても死後の名声を求めることは私にとって理解できないことなのだろう。

 こういうことを書きながら私は実存主義者なのだろうかと反省してみたりする。ところで、なぜカフカは自分で原稿を処分せずにそれを友人に託したのだろうか。それまでの著述家で死後に遺稿を処分するよう友人に託しながらも、処分されずに出版されたという例をカフカも知らなかったはずはないだろう。それなのになぜカフカは自らの手で原稿を処分せず、それを友人に依頼したのか。果たしてカフカは実存主義者なのだろうか。[ここまで、2009年1月4日]


[以下追記:2009年1月25日]

 最近は体調が悪く倒れそうになったこともあったので、万が一のことなどを考える機会があった。誰にも気づかれずに家で倒れたりして腐乱した状態で発見されたりしたら嫌だなあ、などと想像したりする。そうならないためにも、家族や研究室の関係者に現状を伝えておき、音信が途絶えるなどしたときには何か起こっていないか速やかに確認してもらえるようにお願いし、そうすることで万が一の時には関係者に連絡が行き渡るような経路を作っておかなければと考えたりしていた。とはいえ、腐乱した状態で発見されたくないというのは私の死後についての欲求であって、私が以前書いたことにしたがえば、こうした欲求を持つことは非合理的なのではなかっただろうか。このことは死後、あるいは(現在の日本では法律的には死とされていない)脳死状態での臓器移植に同意するかどうかという問題とも共通する部分があるのかもしれない。