なぜ人は地位や名誉を求めるのだろうか。もしこれらが生きていく上で有利に働くというのであれば分からないでもないが、後世に自分の名前を残したいということになると途端に理解することが困難になる。というのも地位や名誉を墓場まで持っていくことはできないわけだから、後世に名前を残すということは当人にとって何の得にもならないように思われるからだ。それではどうして人は死後の名誉まで求めるのだろうか。その理由をもう少し考えてみると、地位や名誉に付随する積極的な価値に引きつられて抱くようになった誤った信念によるもの、あるいは後世にまで地位や名誉が維持されることが子孫の繁栄にとって有利であるという進化論的な理由に基づくものという二つがすぐに思いつく。だが、前者であれば後世に名を残す意味は見出せないし、後者であっても自分の子孫を気遣うことが死んだ者にとってどれ程の意味があることなのかを考えればやはり意味がないように思われる。自分が生きているあいだであれ死んだあとであれ、およそ子孫の繁栄を気遣うことに意味があるのは自分が生きているあいだだけである。まあ私には思いもよらない何かがまだあるのだろうが、それは私には思いもよらないものなのだから、いずれにしても死後の名声を求めることは私にとって理解できないことなのだろう。
こういうことを書きながら私は実存主義者なのだろうかと反省してみたりする。ところで、なぜカフカは自分で原稿を処分せずにそれを友人に託したのだろうか。それまでの著述家で死後に遺稿を処分するよう友人に託しながらも、処分されずに出版されたという例をカフカも知らなかったはずはないだろう。それなのになぜカフカは自らの手で原稿を処分せず、それを友人に依頼したのか。果たしてカフカは実存主義者なのだろうか。[ここまで、2009年1月4日]
[以下追記:2009年1月25日]
最近は体調が悪く倒れそうになったこともあったので、万が一のことなどを考える機会があった。誰にも気づかれずに家で倒れたりして腐乱した状態で発見されたりしたら嫌だなあ、などと想像したりする。そうならないためにも、家族や研究室の関係者に現状を伝えておき、音信が途絶えるなどしたときには何か起こっていないか速やかに確認してもらえるようにお願いし、そうすることで万が一の時には関係者に連絡が行き渡るような経路を作っておかなければと考えたりしていた。とはいえ、腐乱した状態で発見されたくないというのは私の死後についての欲求であって、私が以前書いたことにしたがえば、こうした欲求を持つことは非合理的なのではなかっただろうか。このことは死後、あるいは(現在の日本では法律的には死とされていない)脳死状態での臓器移植に同意するかどうかという問題とも共通する部分があるのかもしれない。