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2008年4月26日(土)の日記

 神戸で行われていた「書評カフェ」というイベントに参加してきました。「書評カフェ」の定義はよく分かりませんが、わたしが参加したイベントでは、(1)あるカフェを貸切にして、(2)絵本の朗読(読み聞かせ)があり、(3)本の内容について自由に話し合うというものでした。参加費用は500円で、飲み物を1杯注文することができます。事前の申し込みなどは必要ありません。カフェそのものが商店街の活性化のために作られたものであるという性格から、商店街で購入した食べ物は持ち込み自由です。

 今日は「大切な人に伝えたいこと」というのをテーマに、大谷智加子さんが書かれた『白うさぎ 黒うさぎ』という絵本を大谷さんご自身が朗読して下さり、全員で話し合いをしました。参加者は15名ほどで、20歳ぐらいの方から85歳の方まで幅広くいましたが、ケア・マネージャ、看護師、病院でのボランティアなど、医療・介護に関わっている方が全体的に多かったような気がします。

 医療・介護に関わっている人と話ができて大変有意義な時間を過ごすことができました。ただ、途中で一度休憩がありましたが、3時間は少し長く感じました。今回はいつもより参加者が多いとのことでしたけど、人数も話し合いをするには少し多いように感じました。場所が狭かったのも人数が多いと感じた要因の一つかもしれません。

 今日の話し合いの中で印象に残ったことをいくつか書き残しておきます。まず、(遠い)親戚の存在が思いの外大きいということに気づかされました。「家族で決めたことでも、そのことを知らない親戚からケチがつく」や「介護に関して介護に関わっていない遠い親戚から文句を言われる」といったような話がありました。また、「リビング・ウィル」という表現は形式ばっていて変に構えてしまい本心が伝えられないので「伝えたいこと」と言い換えているという話や、「告知」とは言わずに「病状説明」と言うのだという話、「病状説明」の下手な医者がいて説明を受けた翌日に自殺した患者さんがいたという体験談――話を聞く限りでは、その患者さんが自殺した原因は分かりませんでしたが――などがありました。アートがケアにつながるという意見も出てきました。アートとケアの関係について今のところわたしは懐疑的なので、今後いろいろな人の話も聞きながらよく考えていきたいと思います。

 家族が絶望的な状況にあるとき、若い医師から「あきらめないで下さい」と言われて怒ったという体験を話された方がいました。彼女が「この状況であきらめずにいられますか」とその若い医師に問い詰めると、その医師は何も言い返せなかったと言っておられました。彼女はことさらその医師が「若い」ということを強調されていたような印象を受けましたが、この話を聞いたときに患者やその家族と医師とのコミュニケーションは難しいなと思いました。実際、ある医師が若いということでわたしたちはその医師の経験が浅いという偏見を抱きがちですし、看護師やその他の医療従事者の中には「医師」というものに対して嫌悪感を抱き蔑視している人が少なくないように思います。とりわけ医療従事者間のそれは、新米で経験の浅い医師とその病院に長年勤めている経験豊富な看護師の間で、待遇や権限の面において経験や勤続年数に反するような事態が生み出しているひずみであるような気がします。

 先ほどの話に戻ると、結局のところ医療従事者は「私たちには何も言うことができません」と言うしかないように思えてきます。これは分かり合えないことを前提としたコミュニケーションです。しかし、他方で分かり合えることを前提としたコミュニケーションを求めている人たちもいるでしょうし、つらいときに何か慰めのことばをかけて欲しいと考えている人がいることも事実なわけです。「私たちには何も言うことができません」というのはいたわりのことばかもしれませんが、こうした人たちにとって慰めのことばではないはずです。

 話は変わりますが、この医師と看護師の問題はわたしたちの業界においても当てはまるような気がします。最近は大学院重点化の問題もあってか大学院生の流動性も激しくなってきましたが、昔からその大学に所属している大学院生、ときには大学教員にとって、外から入ってきた学生や教員というのは目の上のたんこぶのように見えるところがあるのかもしれません。