とりとめもないこと

はじめに

 とりとめもないことを書きなぐっていく。書きなぐっては修正する。しかしその修正もおよそ書きなぐりにほかならないから、やはりここに書くことは書きなぐり以外のなにものでもない。最近ではツイッターで適当なことをつぶやいていたけど、思い浮かんだ一連のアイデアを書いてしまう前に中断してしまったり、しばらくたって同じようなことについてつぶやく場合でも、以前のつぶやきをうまく回収して消化しながらつぶやくということがしにくいのが難点であった。他方で、ツイッターでつぶやくときにはひとつひとつのつぶやきを140字に収めなければならないので、少しはすっきりした文章にしようと努力するのがツイッターのいいところだと思う。そんなこんなで、とりあえずブログで考えていることをまとめていく実験をしてみたい。

編集メモ

 具体的なことから書き始めて抽象的なところへ筆を進めていったらよいのか、その逆の方がよいのか悩むところ。読む人にとっては前者の方がよいのだろうけど。頭に浮かぶ順序は往々にして後者なんだよなあ(具体的な事例に着想を得ているとしても)。

 この点は大学で授業をしていてもいろいろ考えさせられる。具体か抽象かとは別に総論か各論かという区別を考えてみる。総論から各論に入ろうと思うと、どうしても抽象的な話から具体的な話へという流れになりがち。もちろん総論のなかでも具体的な話はできるんだけど、たぶんそこまで言い始めると、そもそも具体についての中身のレベルが違うんだよなあ。

1. 部分と全体

1.1. ある集合の一部について批判するときに気をつけなければならないのは、そのことを全体への批判と取り違える人がいるということである。

1.1.1. このように部分への批判を全体への批判と誤解する人は少なくない。

1.2 「ある集合の一部」とは、例えば個人の行為にについて言えば、個人の行為全体のうち一つまたは全体よりも少ない部分に属する行為のことである。集団で言えば、その集団のうちの一人または全体よりも少ない部分に属する成員のことである。

1.3. ある集合の一部を批判することは、その集合の全否定ではないが、これを全体への批判と取り違える人には全否定のように受け取られる。したがってこのような人から誤解されないためには、当該の批判が全体への批判ではないことを明示的に示すことが実践的には必要である。具体的には全体から批判の対象である部分を引いた残りは批判からは無関係であるという説明をセットにする必要がある。

 「全体から批判の対象である部分を引いた残りは批判からは無関係である」というのは、ほんらいはたんにその残りの部分については批判の対象外であるというだけでよいのだが、実践的によく行われていることは積極的にその残りの部分について擁護することである。これは誠実ではないが、それぐらいおおげさにしておかないと、部分についての批判と全体についての批判の区別がつかない人に誤解されてしまうおそれがある。

 「積極的にその残りの部分について擁護する」とは、例えば公務員の仕事における不真面目さを批判する際に「ほとんどの公務員は一生懸命仕事をしてがんばっている」というのをセットにして言うような場合のことである。

2. ある集合の一部についての批判と全体への批判を取り違える人が批判する側である場合には、部分について批判しているのに全体について批判したものと誤解することになる。

2.1 この場合「あなたが批判しているのは部分でしかなく全体ではない」と指摘するだけでは十分ではないことがある。どうしたものか悩む。この点は、推論においてあいだを飛ばすことについての問題として別途考える。

3. 嫌われること。

3.1. 部分とか全体とかいう人は嫌われる。

3.1.1. 「机上の空論だ」とか「学者は現実離れしている」とか言われる。これはアドホミネム(対人論証/人格攻撃、誹謗中傷のようなものであって、批判や反論になっていない)。

3.2. 「論理的には」という表現を嫌う人がいる。

3. 2. 1. 「論理的には」という表現は使ってよい相手と使わない方がよい相手がいる。

3. 2. 2. 多くの場合、一定の了解をしている「論理的な」空間の中でコミュニケーションをしているはずなので「論理的には」ということばはわざわざ付け加えるほどのものではないはず。ところが、なかには論理的なコミュニケーションに乗っかっていない人もいるし、のっかっているつもりでのっかれていないひともいるので、場合分けが必要。乗っかっていない人は意識している場合とそうでない場合がある。意識している場合には論理的にはと言うことはお互いの立場を鮮明にすることにはなるがそれ以上ではない。むしろ論理的に考えることを押し付けているものとして反論されることになる。意識していない人に対しては話がどこまでいってもかみ合わない。論理的に考えているつもりでそれができていない人に論理的にはと言うと「おれは十分論理的に考えられている」ということで怒ったり不快感を示したりこちらの言うことが論理的であるということを否定したりという行動に出てくる場合がある。けど、そうでない場合もある。相手が何を望んでいるかだよな。いずれにしてもたんにこちらがわの議論の正当性を示すだけのために「論理的には」と使うのはほとんど役に立たない。権威にもとづいて相手にそれを押し付ける場合は詭弁になるし。だいたい、相手と自分の意見がかみ合わないときに「自分の意見のことを論理的だ」と言う人は論理的ではないことがよくあるという自己矛盾的な状況もあるわけで。

推論においてあいだを飛ばすことについて

 推論においてあいだを飛ばす人がいる。より厳密な言い方をすれば、多くの人が説得されるぐらいにはあいだの段階を細かく分けないでいきなり前提から結論へ飛ぶ人がいる。これはどうしたものか。当人にとってはそれで十分だと思っているのだろうから、その信念を変えさせるのはなかなか一筋縄ではいかなさそうだ。これは単純化して考える訓練を受けているいわゆる理系の人間に多い(という推論も、実証的な裏づけがない限りは実はあいだを飛ばしている実例)。

2. 求められている(期待されている)ことと違うことを返す人――なんか途中から違う話になっている

2.1. 求められていることを理解できずにまったく違う反応を示す人というのがいる。たとえば…。間接的な表現、比喩が理解できない人がなんらかの理由(たんにわからないまま過ごしてきただけの人もいれば、脳器質的なところに原因が求められる人もいる)で一定数存在する。

 ただ間接的な表現や比喩表現にも一定の役割、意味があるのであって、そういう点から言えばすべてが直接的なごつごつした表現になればよいというわけではない。とすると、人によって、間接的な表現が通じる人、通じない人と相手によって表現を使い分けるということになるだろうか。

 直接的な表現から始めるといつまでたっても間接的な表現のコミュニケーションには到達しないので(ほんと?)、始めるとしたら間接的な表現からで、それでコミュニケーションの齟齬がある場合には直接的な表現を中心としたコミュニケーションへ移行すればよいのだろうか。そうすると直接的な表現によるコミュニケーションしかできない人は必ず一度は何らかのトラブルを経験することになる。直接的な表現も間接的な表現も理解できる人は「コミュニケーションとはそういうものだ」ということでなんとかなる。逆に直接的な表現しか理解できない人は、トラブルから抜け出せるかどうかを直接的な表現も間接的な表現も理解できる人に一方的に依存することになる。

 どちらのタイプの人かを調べるテストがあればいいな、と言えば、直接的な表現と間接的な表現のどちらも理解できる人は、そんなことしないとコミュニケーションができない人は劣っていると考えるかもしれないし、企業なんかではそういうテストを入社希望者に対してしたがるかもしれない。そして間接的な表現を理解できない人をふるいにかけて排除しようとするかもしれない。

2.2. 欠点がある(突っ込みどころがある)ことを求められているときに、完璧に見せようとすることだけを考える人。完璧であることによって何かと粗を探されて場合によっては不条理な批判をされる。するとさらに自分が完璧であることを見せようとするから、このやりとりはいつまでたっても平行線なまま、一方が他方を評価したりされたりする関係にある場合、評価は下がり続ける。

2.2.1. 欠点がある(突っ込みどころがある)ことを求められていることに気づいている人は、わざわざ相手の求めているような突っ込みどころを用意する。逆に評価する側は、相手が本当にそうした欠点を持っているのか、それともわざわざ用意された欠点なのかを見極められる人とそうでない人がいる。

穴を掘る人

 よく税理士が税務調査に際してお土産(ここでは申告の誤りぐらいの意味でしょうか)を用意するという話があります。ネットで検索すると税理士がその有効性について否定しているものは見つかりますが、そうした行為が行われていることを否定しているものは見当たりません。というよりも、有効性を否定するということを裏返すと、(自分はそのようなことはしてないし、自分の顧客にはそのような不条理なことはさせないとしつつも)実際にはそのようなことが行われているということを認めているわけです。まあここらへんは本筋ではないのでこのぐらいにしておいて。

 

人に「暇ですか?」と予定を聞く人

 英語で言えば”Are you free on next Sunday?”みたいな感じになるのかな。こういうのは別に変ではないのかな?まあ”free”と「暇」ではだいぶニュアンスも意味も違うような気がするけど。

何をどこまでやるべきかということについての意識・認識は個人差があって…

 その認識がずれている集団で仕事をするとすごく非効率で不幸になるということ。やらなくてよいことをやって仕事を増やす人、やらなければならないことをやらなくて仕事を増やす人。連絡するべきこと、共有するべきこと、しなくてよいこと云々。

すなわち、つまり、要するにを多用する人

 「○○○は△△、すなわち□□」みたいな話し方をする人がいる。△△には直喩が入ることが多い。といってもこれでは私自身が読み返してもよくわからないのでなんとかわかりやすい書き方をしないとと思うのだが、とりあえず先を書く。

 文語と口語が使い分けられない人というのがいて、わかりにくい話をする人はそれが関係しているのかもしれない。

行ったり来たりの繰り返し

 授業なんかで、ある立場を紹介する。これだけではまずい(と思う)ので、その問題点を指摘する別の立場を紹介する。たいていの場合2つ目の立場にもいろいろ問題があって、最初の立場の別バージョンか第3の立場があり、第4、第5と続くけど、どこまで説明できるのかについては授業の時間や全体とのバランスなどで限界がある。

 時間が最大限あったとすれば最後に提示するであろう立場を最初に紹介すればよいかといえばそうでもない。たとえば大まかには2項対立のようなものでとらえられることがらであったとすると、他方の立場ではなくなぜそちらの立場を紹介するのかという疑問が生じてくるし、すでに解決されている最初に指摘されるであろう問題点を挙げてくる人も出てくる。だからこそ最初から順序立てて説明するわけで、時間がないからとあいだを端折ってしまうと本末転倒である。

 ということで、最初から第2、第3、せいぜい第4ぐらいまでの立場を紹介したところであとは自分で考えろと振ることが多いし(ほんらい私は学生自身に考えてもらうよう促すべきであるという立場なんだけど)たとえば第4までの立場を紹介したところで説明を終えると、それが完璧だと私が理解している立場だと学生に誤解されるようで困ってしまう。

 というよりも、そもそも何事につけても、紹介した立場がなにもかも紹介する私自身の立場であるかのように誤解する学生が少なくなく、もちろんそうではないということは口が酸っぱくなるぐらい言っているにもかかわらず、そのように誤解されるのにはいろいろと悩んでいる。第三者の立場として紹介することを、その人の立場と誤解してしまう人が世の中には結構多くて、これはずいぶん前から考えている課題の一つ。

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