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2008年7月28日(月)の日記

 病院の待ち時間などを利用して、貯まっていた4日分のコラムを読む。

 まずは朝日新聞のコラムから。2008年7月26日付のコラムは文化庁が実施した「国語に関する世論調査」についての話。「鬼籍に入(い)る」とは、人が亡くなることを言うようだ。知らなかった。鬼という字にはもともと、「人が帰るところ」という意味があるそうだ。25日付のコラムは八王子の無差別殺傷事件について。

東京・八王子の書店で起きた無差別殺傷事件で、アルバイトの大学生斉木愛(まな)さんが犠牲になった。人柄を知る人は「明るく、まじめな人でした」と評している。だが、一昨日までなら、尋ねられれば「明るく、まじめな人です」と答えていたはずだ▼憎んでも余りある凶行が、「です」を「でした」に変えさせた。かけがえのない命を過去のものにした。愛する肉親を、親しい友を、いまや過去形で語らなくてはならぬ人たちの無念は、いかばかりかと思う▼(2008年7月25日付「天声人語」)

 人を殺すという行為には、「現在のもの」を「過去のもの」にしてしまう力が備わっている。「現在のもの」が「現在のもの」であり続けるためには、絶えず継続する意識や、そうした意識を取り戻す見込みがあるということが必要なのかもしれない。このことはまた機会があるときにじっくり考えたい。

 次は毎日新聞のコラム。2008年7月28日付のコラム「インドネシアの介護士受け入れ」についてでは、インドネシアの人たちが子どもをかわいがり、ホスピタリティーにあふれた国民だということが書かれている。26日付のコラム「競争相手を示す『ライバル』という言葉は・・・」の冒頭は、ロックらの所有権論に通じるところがあっておもしろかった。

 競争相手を示す「ライバル」という言葉は川の「リバー」と同じ語源らしい。もとは「同じ川の流れを使う人」という意味で、川の流れが細ければお互いに張り合って、足をひっぱり合う関係になってしまう▲もっとも川の流れが豊かならば、その恵みを分かち合い、お互いに切磋琢磨(せっさたくま)し合うライバル関係も生まれる。(2008年7月26日付「余禄」)

 読売新聞のコラムには特にこれといったものはなかったが、2008年7月27日付のコラムで、特許庁のロビーに「10大発明家」のレリーフが飾られているという話は勉強になった。

      豊田佐吉(木造人力織機)
      御木本幸吉(養殖真珠)
      高峰譲吉(アドレナリン)
      鈴木梅太郎(ビタミンB1)
      杉本京太(邦文タイプライター)
      本多光太郎(KS鋼)
      八木秀次(八木アンテナ)
      丹羽保次郎(写真電送方式)
      三島徳七(MK磁石鋼
      池田菊苗(グルタミン酸ナトリウム)

 産経新聞と日本経済新聞のコラムもいくつか目にとまったものはあったけど、あえて書き留めておこうと思うほどのものではなかった。

2008年7月24日(木)の日記

 天声人語はウナギの話。

小咄の一つに、ウナギを焼く匂いで飯を食う男が出てくる。店の主がお代を求めると、銭の音をチャリンと鳴らし、「匂いのお代は音で払う」。(2008年7月24日付「天声人語」)

 これは落語「しわい屋」に出てくる一場面のようだ。機会があったら一度観てみよう。

 読売新聞は八王子の殺傷事件について。芥川龍之介の遺稿「闇中問答」について書かれている前半がおもしろかった。

 暗闇のなかで声が問う。お前がこの世でなした行為の責任は?「僕」が答えて言う。<四分の一は僕の遺伝、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、――僕の責任は四分の一だけだ>◆その返答に、暗闇の声は告げた。<お前は何と()う下等な(やつ)だ!>と。きょうが命日の作家、芥川竜之介の遺稿「闇中(あんちゅう)問答」にある。(2008年7月24日付「編集手帖」)

 「僕の偶然」というのが何なのか、よく分からない。あと、龍之介の龍を竜と表記しているのには何か理由があるのだろうが、それも分からない。

 梅田を徘徊して旅行用にアーミーナイフを買ったあと、久しぶりに映画(宮崎駿監督『崖の上のポニョ』)を観に行ってきた。ストーリーも映像も酷いけど、声優が一番酷かった。

2008年7月23日(水)の日記

 暑くて6時半に目が覚める。久しぶりに全国紙の各コラムに目を通す。

 輸入ウナギに「愛知県三河一色産うなぎ」のシールをつけてぼろ儲(もう)けしようとした業者が摘発されたが、どうやら氷山の一角らしい。国内で“本当に”養殖されているウナギは消費量の2割にすぎないはずなのに、近所のスーパーでも「国産」モノが陳列ケースの大半を占拠しているのはどうしたことか。(2008年7月23日付「産経抄」)

 確かにこう言われてみると、すごく説得力がある。今度スーパーに行ったら国産と中国産の比率に注意してみよう。

 朝日のコラムは、知が蓄積された存在として人を考えることについて。様々な経験をした人を「本」として貸し出す「生きている図書館」が欧州で広まっているという話などが紹介されている。ロンドンのある図書館では元ホームレスが一番人気だったのだとか。このコラムは臨床哲学について考える上で何か役立ちそうな気がする。

 研究室の人たちと舞洲工場を見学してきた。フンデルトヴァッサーがデザインしたというのはあくまで外観のイメージだけで、そのデザイン画に6600万円も支払ったとのことだった。建設された年代が違うので単純な比較はできないかも知れないが、焼却能力が同じ森之宮工場は約40億で建設されていることを考えると、舞洲工場の総工費約609億円というのは文字通りけた違いに高いことが分かる。年間に1万6千人もの人が見学に訪れているとのことだったので、建設費の一部を回収するためにも、土産売り場の一つぐらいあっていいと思うのだが、そういったものは何もなかった。まあ見学者の大半は小学校の社会見学によるものだろうから、売店を作っても採算はとれないのかも知れないなあ。

2008年7月22日(火)の日記

 前期の美学読書会は「再現」を最後まで読んだところで終わり。後期は10月7日から始める予定。

 堕落しないためにも、朝は7時台か遅くとも8時台までには起きるようにしたいなあ。頑張ろう。

 数日前の食事中に噛み違えて口内炎(stomatitis)ができたので、初めて口内炎の薬を買ってみた。残念ながら、今のところはまだ薬を使っても効いているという実感がない。周りの人の話を聞いていると、噛み違えなくてもストレスや病気で口内炎ができる人もいるそうだから、そうしたことが原因で口内炎のできない私はまだ幸せなのかもしれない。それにしても口内炎ができると著しく効用が下がるなあ。

 入学料の免除に続き、前期の授業料免除の結果も不許可だった。大学というのは何も事務局やそこに従事する事務職員だけで成り立っているものではなく、教員、学生、キャンパス、講義・研究棟、伝統といった一切のものを含めた総体としてあるものなのだろうが、こういうことがあると心情的には大学に対してアタッチメントを感じないなあ。まあ、アメリカのように1年に300万から500万の学費を支払っても結果を出しさえすればそれに見合うだけの対価が得られる環境がある程度整っているなら、喜んで入学料だって授業料だって納めるし、将来ある程度の財産を築けば大学に寄付しようという気にもなるだろうが、現状を見る限りでは、奨学金という名のローンをさせられた上で、学費という名の下にそれを吸い上げられ、くその役にも立たない学位を拝した後は求人もない砂漠に放り出されてローンの返済を迫られるだけだもんなあ。

 くやしいけどこんなことで悩んでいても時間を無駄に過ごすだけなので、とにかく頑張ろう。