平川秀幸『科学は誰のものか――社会の側から問い直す』NHK出版生活人新書、2010年

 2010年9月22日(水)に阪大生協書籍部豊中店で10%オフで購入し、同日読み始め2010年10月10日(日)に読み終える。

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 いろいろと勉強になった。

 著者のというわけではないが、本書で説明されているような「統治」と区別した「ガバナンス」の語感・用法には違和感がある。この「統治」と「ガバナンス」の違いは「芸術」と「アート」の違いのように、ほんらい「アート(art)」の訳語が「芸術」だったはずなのに、「アート」という表現を意図的・政治的に「芸術」とは違う意味で用いることで「芸術」と「アート」が違う意味で使われるようになったのと同じようなものを感じる。上から下への一方的な支配の形態としての「統治」とは違う形態について語りたいのであれば、別の言い回しで適切なものを見つけるか、それが無理なら新しい表現を別途作るべきである。

 参加型テクノロジーアセスメントの手法の代表格が、DBTが1987年に開発した「コンセンサス会議」だ。(58頁)

 なるほど。

 科学技術のガバナンスに関わることは義務なんかではない。世の中に個人の人生にも、大事なことはほかにもたくさんある。やりたいこと、やらねばならないことも。そのなかで、ほかでもない科学技術の問題に関わってしまうのは、人それぞれの「運命」の問題だ。

 要は、関わりたい人、関わらざるをえないと思ってしまった人たちが、それぞれのやり方で関わればいい。(194頁)

 こういう主張は少なくないのだが、わたしはいまのことろこの主張に違和感を覚えているので、同意しかねる。

 196-214頁のあたりは同意。

 222頁の「そんな彼らが」から始まる文はなんだか変。「耳を傾け」は(文脈でわかるものの)「何に」にあたることばがないとか。

 222-5頁の「専門家はだしの素人たち」の項で書かれているような話は、日本でやるとどうなるんだろう。医師法などを根拠に公権力が振りかざされたりと、日本では障害が多い気がする。

 233頁「『疑問派』であるということ」の項は、哲学との関係で考えるとおもしろい。

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